最初にこの部屋を見たとき、ツナは意外に狭いなと感じた。
いや、ボンゴレボスの執務室としてはやや狭いというだけで、世間一般的には十分広い部屋なのだが。
第一印象として、ふぬけてしまったのには少々深い理由がある。
次期ボンゴレ10代目としてイタリアに渡った昨今、驚きっぱなしの連続であった反動から。
まだ成田だというのに最初に空港に着くなり、濃い色のサングラスをした背の高い堅牢な男たちにシークレットサービス並みにボディーガードを受けて、一際目立つ。
傍から見れば怪しいと言わんばかりだろうか、一般人にはさすが気取られないようにしている。
何だかとても気疲れしてようやくイタリアに付いたとなれば、あちらの空港に次々に止められる黒い車の数々。
丁度中間にある特別仕様車、ツナが乗る一台以外は全て警護の車らしい。
赤絨毯とかそんな恐ろしいものは出てこなかったが、まだマフィアに染まっていない身としてはびびるには十分な要因であった。
案内されたボンゴレイタリア本部は文字通り、城だった。
てっきりツナはマフィアというものは闇に隠れているのかなとも思っていたが、そうではない。
広範囲にわたる地域住民には慕われて、まるでご領主さまのように堂々としていたのだ。
城下町は賑わい、外国にまだ理解が乏しい頭では、まるで中世ヨーロッパに彷徨い込んだ印象さえ受けた。
実際は、前を歩く十歳にも満たなそうな少女が小奇麗な携帯電話を持ち、フェラーリ・ランチア・ロメオ・トマソ・ビアンキ・ランボルギーニなどのイタリア名産車が石畳の上を走り、ツナにはあまり詳しくないが女性向けブランドショップが立ち並ぶ町並みもあるにはあるのだが。
一件平穏に見える街と同じく、ボンゴレ本部も上辺は穏やかに見えた。
ただ、無駄にでかいとはさすがに思ったが。
そんな中で、これからツナの執務室になると言われて通された部屋の規模がさほど大きくないのでほっとした。
平均的日本人の身長や体格より大分小柄にあたる身としては、部屋にのまれそうな気持ちになるのはいささかどうかと思っていたので、ありがたいとも思った。

それが、まだ若かった頃の思い出。
あの頃は自分でも思い返すだけで純情だったが、やがて変わりきってしまった。
慣れというのは恐ろしいもので、二十四歳にもなったツナは大分落ち着いた。
最初と、執務室だけは変わらずあり続ける。
この部屋がさほど広くない理由も言われずにやがて悟った。
広すぎる部屋ということは障害物が何もないということで、いざ狙われたときに守るべき盾がない。
見通しが良すぎるのも問題なのだと、部屋の窓ががっちりすぎる防弾ガラスだと気が付いたときに理解した。








今日も、ツナは執務室でのデスクワークに徹する日々だ。
以前は実地が重要だとリボーンに言われ外によく出されたが、ある程度の合格印を貰うと、山のような書類と向き合うように言われた。
当初は、あまりの量に根をあげたこともあったが、ボスの仕事の99%以上はデスクワークで輝かしいのは一握りだと怒られた。
だから、それは随分と長く続いている現在進行形。

「あれ…?」
黙々と机に徹している最中、目を通していた書類にふと意識が止まる。
それはよくある部下からの稟議書の一つだった。
直属の部下の一人ではないので、初めて見る名前の署名がそこにつづられている。
10代目であるツナのところにまで稟議が回ってくるくらいなので、おそらく自分より相当年上の部下なのだろうが、字体はよほど緊張していると思われるガチガチに震えた痕が残る。ついでに微妙な紙の皺。
読み取る文面はもちろんイタリア語なのだが…一点だけ解釈に突っかかる点が出てきた。
妙に堅苦しい言い回しを使おうとしてくれた結果、ツナは悩むことになったのだ。
多分物凄く古い言葉で、今はさほど使っていないと思われる。
日本語でたとえるのは少々難しいが、あえて言うならば誇りを矜持というくらい古いかもしれない。
書類相手になってから、大分イタリア語の語学教養は勉強して身に付いたつもりであったが、まだまだ勉強不足だったようだ。
ツナは椅子から立ち上がって、イタリア語の辞書を探そうと壁に備え付けられた書斎に足を向けた。



コン コン コン
規則正しく響く扉へ到るノック音。
きちんとノックをしてツナの執務室に入ろうとするのは限られた人物だけなので、ノック音の様子で誰が叩いたのか直ぐにわかる。
「入っていいよ、隼人。」
「失礼します。」
促された言葉を受けると一つかしこまって、予想通り隼人が入室してくる。
手に乗るトレイの上には、上品な香りが辺りに零れるコーヒーと、疲れを取るための小さなチョコレートをあしらったドルチェの置かれた皿がある。
折しも今の時間帯は深夜に差し掛かっている。
右腕として務めている隼人は、与えられた任務で外に出る時以外、ツナの隣に位置する小さな部屋で仕事をしている。
いつまでの消えない電気と主人の気配に考慮して、様子を見に来たのだった。

「10代目、お疲れ様です。…ところで、何をなさっておいでですか?」
てっきり執務机に向かっていつもどおりに仕事をしているのかと思いきや、少々予想は外れて、今のツナは書斎の本を出して積み重ねていた。
元々あまり奥に本を陳列するような仕組みにはなっていないのが、どうしても探したいのだろう。
ツナの行動は、端から片っ端に確認しているように見受けられた。
「ああ、ごめん。ちょっと辞書を探してて…」
一端、隼人の方に身体を向けたが、そう弁解して再び棚に向かった。
定期的にメイドが掃除しているため、埃が飛び散るような事は間違ってもないのだが、殆ど出し入れしていない古びた書籍の独特な匂いが立ち込める。
「辞書なら、執務机の中にありませんでしたか?」
ツナが辞書を探すなんて珍しいと隼人も思う。
最近はお世話になっていなかったが、真新しい辞書を買いなおして入れておいたことを言ってみた。
「あ、うん。それはわかってるんだけど…ほらっ、オレが日本から持ってきたイタリア語辞書。あれを探してるんだ。」
具体的な形状を口では伝えにくかったので、隼人が覚えていそうなことを口にした。
ツナが日本から持ってきた荷物なんてそれこそスーツケース一つにも余る様なものしかなかったが、それはマフィアのボスとして務めるようにとリボーンから渡された辞書だった。
あのリボーンのお墨付きなのでかなり使い古した覚えがある。
辞書というのは新しくなっても余程のことがなければ単語が削られるものではないと知っていたが、あの出典は十年前の日付なので、もしかしたら今の辞書には出ていないような解釈で書かれているかもしないと思ったのだった。
「それでしたら…」
遠い記憶を探るように少しだけ考え抜いた後、隼人は膝をついて書斎の下の棚を開けた。
電気の光だけでは心もとない位置にあったのだが、いくばかすると分厚い辞書を手にしたのだった。
「こちらで宜しいでしょうか?」
片手で軽く持っていたのを両手でしっかり示して、表面をツナに見えるように目の前に持ってきた。
「そうそう、これだよ。ありがとう隼人。」
随分懐かしいものが出てきたなあと喜んでツナはお礼を言った。
思い起こさなくとも、隼人は記憶力が物凄く良い。
それに今まで何度も助けられたのだから、下手に時間をかけるのなら、早く呼べばよかったと思い直す。
差し出された辞書を嬉々として受け取ろうとした時、ツナの右の人差し指が隼人の指とが一瞬だけ触れ合った。
刹那とも思える感覚。

「失礼しました。申し訳ありません、10代目。」
隼人はびくっと身を縮めた後、辞書自体は落とさないように、さっと手を引いた。
たったそれだけのことなのに、ツナは酷く不快になった。
「…いいよ、謝らなくて………新しい辞書も、あるんだよね。そっちも貸してくれる?」
渡された昔の辞書を一度執務机において、ゆっくりとツナはそう言った。
隼人は視線を落としたまま、早急に新しい辞書を探り当てる。
辞書はさして重要な書類というわけではないので、鍵などはかかっていない引き出しの中に入っている。
その行動は淀みないものだった。
「こちらです。」
先ほどと同じようにツナの前に辞書を差し出す。
今度は絶対に手が触れないように細心の注意を払っているのを気取られないように。
ツナは新しい辞書を無言で受け取り、素早くケースを外して中の辞書本体を取り出した。
隼人が言うようにまだ一度も使ったことのない真新しい辞書は眩しいくらいの白さを見せつけていた。
左手全体で辞書を持って、パラパラとページを無造作に開く。
内容なんてどうでも良かった。
そして剃刀のように新しい紙の側面に、そっと右手の指をかざした。
「10代目。何を…」
目の前でその様子を見ていた隼人が叫んだときは、もう遅かった。
鋭利な武器となった紙がツナの人差し指をカマイタチが襲ったように切ったのだ。
じわりとにじみ出る赤い鮮血が指元を濡らし、辞書にぽたりと染みを作る。
紛れもなく、これはわざとだ。
しかし、それを責める自由は隼人にはない。
直ぐに救急道具を持ってこようと、隼人が踵を返した瞬間だった。

「舐めて。」
隼人の耳の中に飛び交うツナの声が静寂を破るように落ちる。
重くのしかかるような音の響き。
反射的に振り向くと、ツナは視線をそらす事は許さないと言わんばかりに冷たい目でこちらを射抜いていた。
「ですが、10代目…」
遠回しの拒否の言葉を隼人は述べる。
許される範囲でこれが最良の表現だったのだ。
「命令だよ。」
「………わかりました。」
すっと目の前に差し出された指が示されるのを見て、戸惑いながらも隼人は了承の意を示した。

ああ、本当はその綺麗な顔を歪ませたいわけじゃないんだ。でも…



「あの時からだったよね。隼人が、オレの心だけは見てくれなくなったのは………」
片膝をついてツナの指に唇を這わせる隼人を見下ろしながら、切なく声を漏らす。









どうしてこんな関係になってしまったのだろう…
疑惑が確信に切り替わったのはいつだっただろうか。

そう、これのせいだと、机の上に置かれた辞書を目を細めて見下す。
古びた辞書から思い出す記憶は、苦い。



愛のみを受け入れない忠義の始まり―――













絶対忠誠 1

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