「おはよう、獄寺君。」

そうやってツナが口にするのは何度目となるであろうか。
同時に、生きているという幻を隣に置いているのかもしれないと、思い悩んだ回数でもある。
何度繰り返しても変わらないのは、獄寺だけで、ツナの時間だけが着実に進行していった。
それが終わる最後の日となる筈だった。





ツナの零地点突破・初代エディションがもたらした氷の結界によってコールドスリープ状態になった獄寺は、程なくして世界随一の医療設備が整っているイタリアへ搬送された。
それに伴いツナ自身も同じくイタリアへ渡る。
期待されたボンゴレ10代目となるべく踏み出した道であった。
周囲には奇特な守護者が揃っていたので、最初は随分と苦労したが、やがてマフィアに身を置く生活にも慣れてくる。
全ては一つの目的のため、ツナは身を粉にして与えられる職務を真っ当する。

イタリアの医療が発達しているのは、裏の世界で必要とする者が多かったからであった。
それこそ非合法は当たり前のように横行し、そんな実験のような犠牲を出しながらも常に最先端を進んできた。
当初は一マフィアであるボンゴレがそれを全て統括することなど出来なかったが、殺しの本分であるマフィアとしては医療に特に感心を寄せる者がそれほどはいなかったため、次期ボンゴレボスとしてツナがそちらに力を入れれば掌握するのは驚くほど早く出来た。
マフィアが統括する医療従事者に対する扱いは多く箱脅しが常套していたため、それを徹底的に排除し、金銭的にある程度優遇すれば、自然に良い人材が集まってくる。
それでも、ツナが望む段階に到るまで10年という歳月がかかってしまった。
焦らずに慎重に進めてきた事だが、ようやく目処がついた。









カツンッ

無機質な白い空間に自分の足音がこれほどよく聞こえたことはないと、医師は思った。
白い光が照らされる手術台に横たわる要人である患者のパーソナルデータは何もない。
10代半ばのイタリア人と思しき男という、外見から判断できる要因しかないのだ。
無骨な医師が所属するこの病院の表向きは、民間の大学病院であるが、実態はマフィアであるボンゴレファミリーによって運営が為されている。
理事長と院長から直接この手術を頼まれたときに身の毛もよだつ思いだったが、まさか断るわけにもいかない。
極秘裏に設置された集中治療室にいる患者の存在を知らなかったわけではないが、自分としては彼はただの植物人間だと思っていたくらいだったので一瞬自分の十八番を恨んだ。
手術の依頼主は、次期ボンゴレ10代目。
背中に銃を突き付けられながら手術をするわけでもないのに、かつてないほどのプレッシャーを背中に感じる。
確実に生存が望めるまでとの制約の中で、氷を溶かす炎をボンゴレ10代目から直接貰い受けるところから始まったので、そこからまず普通の手術とは違う。
それは長時間にも及びなんとか成功に到ったが、忙しいと聞いているボンゴレ10代目がずっと手術室の廊下で待っていたとなると、冷や汗が出るのは仕方なかった。

「…大変、お待たせしました。手術は無事に成功しました。もうじき麻酔が切れて、意識を取り戻すでしょう。」
そう言った医師がとても恐縮したのは、手術室の外で待ちかねていたのがやはりボンゴレ10代目だからであった。
大学病院の寄付の殆どを目の前の相手によってされていると聞かされれば、まだ10代の面影も残るような東洋人相手だろうが、低姿勢となるしかない。
生涯これほど緊迫したことはなかったが、やっと肩の荷が下りた。
今夜飲む酒はきっと不味い。





手術の終わった獄寺は、約10年間居続けた集中治療室をようやく抜け、ボンゴレ関係者専用の特別室へと部屋を移動された。
予断が出来ないほどの容態からは解放されたからの行先だった。

ツナは、一人病室へと入り、そっとベッドに横たわる獄寺へ近づく。
そして久しぶりに血が通った右手を取り上げて両手で握りしめて、その生を実感する。
目下に光る銀色の髪は10年前と変わらず輝いている。
これを肉眼で再び目にすることをどれだけ望んだかわからない。
長かった。
でも、彼が今ここにいるのだから、そんな時間はどこかに行ってしまうような気さえした。
「早く。早く、起きて。」
自虐するようにツナは何度もその言葉を繰り返す。
夢から現実へとなるように切なく願うのだ。
また昔のように自分を呼んで欲しい。
君が望む『10代目』としての自分を見てもらうために。
「ん…」
呼応するかのように僅かにぴくりと動く獄寺の瞼と眉間をひそめる姿が懐かしい。
わずかにシーツの中の身体が震えて、そのまま髪も揺らす。

目覚める―――

10年ぶりに見た瞳の色は、色あせた写真とは違う綺麗な翡翠だった。
ああ…



「………獄寺君?」
ベッドに沈んだままの獄寺にツナはそっと話しかけた。
それに反応して、獄寺は焦点の定まっていない瞳をツナの方に向けた。

ただ、それきりだった。
それ以外、何もしない。いや、出来なかったのだ。
未知の世界に飛び込んだ子供のように、獄寺の顔には不安の色が浮かんだ。
しゃべることも満足に動くことも出来ない。
彼には生きることしかできないのだった。

「獄寺君。オレのことがわからないの?」
10年の歳月を経れば、ツナの容姿が変わりゆくのは当然であった。
成長期から青年期へと移行し、ボンゴレ10代目としてふさわしい風格を持つようになっていた。
しかし、ツナの根本は何一つ変わらない。
それを突然だからと言ってわからない獄寺ではなかろう。
考えられる要因としたら、一つ。
「何もわからないんだね………」
寂しい目の色を見せて、ツナは呟いた。
ツナだけではない。全てがわからないのだと悟った。



それで終わりだった。










コン コン コン

「どうぞ。」
「失礼します。」

第一執刀医かつ主治医となった医師は、この部屋の扉を叩くという行為でさえ、酷くためらった。
しかし、ぼやぼやしているわけにはいかず、ようやく重い腰を上げる。
患者の意識が目覚めたとすれば、もう容体は想像できる範囲であろう。
室内から入室を促される声が直ぐに聞こえたので、一瞬だけほっとした。
目覚める瞬間といえば普通、医師の立会の元なのだが、それを暗に拒否されたのだから、しばらく入室は困難と思っていた部分もあったからだ。

「遅くなりましたが、患者の脳波の検査結果が出ました。恐らく極度の記憶障害を起こしていると思われます。」
冷静に言いながら医師は、最悪の結果だと内心でつぶやいた。
これから詳しく検査してみなければ確証はないが、それでも大体の見当はつく。
コールドスリープしていた人間の命を助けることは出来たが、10年前に脳はとっくに壊れていたのだった。
患者の記憶障害は第一級。
蓄積した記憶は彼方へと消えさり、生まれたばかりの赤ん坊になり下がってしまったのだった。





「わかった。ありがとう。下がっていいよ。」
ツナの低い言葉を受けて、うやうやしく医師はその場を去った。
退室することを幸せと思うくらい、部屋には寒々しい雰囲気しか流れていなかったから。











ツナは何もわからない獄寺の両手を取る。
そして声の調子だけは明るく見せかけて、本当はどこまでも暗い言葉を伝える。

「オレの名は沢田綱吉。10代目って呼んでくれればいいよ。まずはそれから覚えて…」





生きていさえすればいい。
記憶がなくとも、彼は彼なのだから…













氷棺はパンドラ 2

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